「まちをつくる」ってどういうことなのかわかりますか?
この記事では、豊洲五丁目のまちづくりのお話しをさせていただきます。
※ この記事は、「豊洲西小学校」で「まちをつくるおはなし」をさせていただいたときの資料を元に作成しています。
豊洲五丁目マンション自治会の会長・小山です。
私が豊洲に来たのは、1984年(昭和59年)の5月です。今からだいたい40年前のことでした。
住んだところはメトロコープ第一豊洲というマンションです。今もそこに住んでいます。
その頃の豊洲は、工場と倉庫だけのまちで、いまのようなタワマンや「ららぽーと豊洲」がある奇麗な湾岸都市ではありませんでした。
有楽町線ももちろんまだ開通してません(有楽町線・豊洲駅が開業したのは1988年)。
東京駅や有楽町駅でタクシーをひろって 「豊洲まで行ってださい」と言っても「どこですか?そこ」といわれるくらいでした。
その頃の豊洲の風景ですが
- 6丁目に大きな煙突が4~5本見えていました。(東電火力発電所)
- 豊洲ふ頭 は「石炭ふ頭」と呼ばれていました 。ときどき炭塵(石炭の粉)が飛んできて、ベランダの洗濯物が汚れたりしました。(今の豊洲公園がすてな~にから晴海大橋あたりまで)
- 朝6時になると、修理で停泊している自衛隊の船から起床ラッパが聞こえまし た。私は、その起床ラッパ で目を覚ましていました 。
- カニ公園(豊洲五丁目公園)は まだありませんでした 。 ただ、真ん中にある大きな木はその時からあったように思います 。
- もちろん、豊洲西小学校も昭和大学江東豊洲病院もありませんでした。この土地は防潮堤によって遮られ、入ることも出来ませんでした 。
それから40 年たって、まちの風景はすっかりきれいに変わりました。人もたくさん住むようになりました。
そんな移り変わりとともに、私は豊洲五丁目のまちづくりをしてきました。
これからその豊洲五丁目の「まちをつくるおはなし」をお話しします。
1.横断歩道の伝説
この写真は、「ゆりかもめ」の下にある横断歩道です。
豊洲五丁目からシビックセンターに行くときとか、ららぽーと豊洲に行くときとか、よく使ってると思いますが・・・もしこの横断歩道が無くなったら、皆さんどう思いますか?
昔、この横断歩道が無くなりそうになりました。
昔はシビックセンターや消防署があるところに、図書館や公園があって、五丁目の人達はこの横断歩道を使って通っていました。
ところがある日、ゆりかもめの駅が出来るので、この横断歩道がなくなる、っていう話が出てきた。みんなびっくり!(ゆりかもめ豊洲駅の開業は、 1988年6月です。)
じゃあどうやって図書館や公園に行けば良いの?
ゆりかもめ豊洲駅と豊洲交差点
ゆりかもめの人に聞いたら「豊洲交差点まで行ってその横断歩道をつかうか、ゆりかもめ豊洲駅まで上がって、向こう側に渡ってください」という返事でした。
でもそんな遠回りをするなんて冗談じゃない!
それに乳母車を使う人達や、おじいさんおばあさんは大変苦労することになります。
そこでご近所さん(メトロコープ1、2、都営、沢真さん)が集まって相談して、ゆりかもめに横断歩道を無くさないでください、ってみんなでお願いしました。
その結果・・
横断歩道は残りました!
みんなが便利に快適に歩けるようになりました!
みんなの力で、便利でくらしやすいまちにした。これが「まちをつくる」ということのエピソードのひとつです。
2.豊洲五丁目喰いしん坊祭りのお話
さて今度は「豊洲五丁目喰いしん坊祭り」のおはなしをします。
コロナ禍でで現在は、中止していますが「喰いしん坊祭り」は、豊洲五丁目の人達みんなが参加する、食べ物のお祭りです。
どこで開催したかというと、最初はオーベルグランディオという、昭和大病院の向こうにあるマンションの前の道路でした。
その頃は、昭和大病院が建設中で、工事会社の人達も参加していました。
その後、カニ公園とパークホームズ豊洲の間にある「うるおいの木かげ道路」という道路でやるようになりました 。
ちなみに第1回豊洲五丁目喰いしん坊祭りは2012年10月20日に開催されました。
この時は、まだ防潮堤がありました。
この壁に昭和大病院建設の資料を貼って、みんなに説明しました。
説明は工事をする大成建設さんです。喰いしん坊祭りにも沢山協力してもらいました。
江東区のエライ人達も応援に来てくれました。
始めたきっかけは、その前の年の2011年3月11日におきた「東日本大震災」でした。
このためにこれまで見たこともない大きな津波が、岩手県・宮城県・福島県を襲い、大勢の大勢の人達が亡くなりました。
東京も豊洲でも大きく揺れ、エレベータが止まり、電車やバスも止まり、大勢の大勢の人達が自宅に帰れなくなりました。
日本はこれでおしまいだ、と言う人もいました・・そのくらいひどかったんです。
でもなんとか持ちこたえて今日があります。
でも今度、東京や豊洲で東北地方で起きたような大きな地震と、津波がきたらどうなるでしょう?
私たちは、そんな事があっても困らないように、家具やテレビが倒れないようにしたり、食料品をストックしたりして“日頃の備え”をしています。
でも一番大事なのは、お隣同士のたすけあいです。
一人ではなにもできないから。
それは何かあったとき、助け合うことが出来る、って分かっているからです。
でも、豊洲みたいに新しい土地にいっぺんに住人が集まると、お隣同士のお付き合いがなかなかうまく進みません。
それでお祭りをやって、みんなに参加してもらって、知り合うきっかけをつくろう、ということで始めました。
なので「喰いしん坊祭り」は、大きな地震や津波が来たとき、みんなが助け合う予行演習なんです。
テントをはる練習。外で食事をつくる練習。みんなで協力しあうことの練習。そして知り合いづくりのきっかけになればと思っています。
コロナも落ち着いて、また開催できればと思っていますのでぜひ、参加してください。
3.水辺のお祭り
豊洲五丁目ではその他にも水辺のお祭りに参加しています。
- 初夏の 船カフェ (毎年5月か6月
- 豊洲 水彩まつり (毎年9月 ):特に丁内対抗ボートレース
どちらも豊洲地区運河ルネサンス協議会という、豊洲の町会自治会や会社の人達、芝浦工業大学の学生の皆さんや先生が集まってやってます。
場所はすぐ近くの、私たちが「東電堀」と言っている入り江とその周りです。
「東電堀」というのは昔、東京電力の火力発電所があったからそういう名前になってます。本当の名前は東雲運河です。
スカイダックやディンギーというヨットが浮かぶところを見かけられたかもしれません。
水彩まつりでは豊洲丁内対抗ゴムボートレース が名物です(五丁目はいつも負けてます~)
このお祭りは、水辺をもっとにぎやかにして、みんながもっと楽しめるようにしよう、というためにしています。
ただそれだけでなく、大きな災害があったときに、豊洲中の人達が助けあえるような友達の輪を作る練習でもあります。
目的は、「喰いしん坊祭り」と同じです。
4.豊洲五丁目のまちの景色
私は五丁目の景色がとても好きです。
だいたいそれほど高くない、同じくらいの高さの建物が建てられていて、空が広く見えます。
そんな建物の間に、いい感じで公園や広場や道路があって、緑がたくさんあります。
何より、ハデな看板がありません。
実は建物を作る会社と、区役所と、わたしたち住んでいる人達で、お約束をしているのです。
例えば、
70 メートル以上の建物は作らないこと。新しい建物を作るときは歩道を広くすること。ハデな看板は出さなこと、です。
豊洲シエルタワーとブランズタワー豊洲はちょっと訳があって、かなり背の高いタワマンですが、こんなお約束によって五丁目の街の景色ができているのです。
私はこのまちの景色が自慢です。それをみんなに感じてもらいたいと思っています。
この写真は、「豊洲西小学校」前の交差点横断歩道です。
人が渡るときは人だけ、自動車が通るときは自動車だけ、が通るようにした信号機になっています。
「左折 行き止り」の幕もついてます。
これは地域の人達が考えて、区役所や警察に相談して決めたルールです。
「パークホームズ豊洲」にある桜の木は、パークホームズが建設される、ずーっとずーっと前からあって、パークホームズが建設されるときに、一度引越をして、そしてもう一度植えられました。
これも地域のみんなが「大事な桜を残して下さい」と建設会社の人達にお願いしたからです。
上記写真の道路は晴海通りから「豊洲西小学校」に向かう道路で区道東西路線といいます。
上記写真の道路は「ららぽーと豊洲」の方から昭和大学病院にむかう道路で、区道南北路線といいます。
どちらも季節毎に、奇麗な緑や花をさかせる街路樹がありますが、この植木やお花の種類は、地域のみんなと江東区が相談して決めました。
上記写真歩道は、晴海通りの五丁目側の歩道です。
自転車専用エリアを作る事になったとき、道路の幅を拡げて欲しいと、 五丁目のみんなが東京都にお願いして広くしてもらいました。
朝晩の通勤ラッシュのとき、今までの道路幅だと、狭くてすごく混雑してしまうからです。
こんな風にして豊洲五丁目のまちが作られてきました。
五丁目のまちづくりの歴史、いかがでしたでしょうか?
現在、豊洲五丁目にお住まいであれば、より良い居住環境をつくっていくためのまちづくりにご協力いただければ幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました!
また、どこかでお会いしましょう!